武州八十八カ所 その1

第一番 法恩寺から第四番 多門寺

越生駅前の太田道灌像
 「伝山吹の里(埼玉県指定旧跡) 鷹狩りの途中、にわか雨に遭った若き日の太田道灌は、蓑を借りに貧しい民家を訪ねました。すると、出てきた少女が、何も言わずに一枝の山吹を差し出しました。道灌は少女の謎掛けが解けませんでしたが、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」という古歌を教えられ、「蓑がない」悲しさを山吹に託した少女の想いを知りました。己の不明を恥じた道灌は、歌道を志し、文武両道の名将になったという逸話の故地です。付近一帯には、古くから山吹が自生しており、かつては地名も山吹でした。また、「法恩寺年譜」や和歌山県の「熊野那智大社文書」には、中世、この辺りに居住していた山吹姓の一族の名が見えます」(越生町HP)

第一番 松渓山法因寺 真言宗智山派 
 天平10年頃行基の開山により創建。鎌倉時代越生氏の保護のもとに再興され、天台宗の寺院となり室町時代中期に真言宗に改宗。江戸時代には真言宗の学問所であった。

かつての越生は、着物の裏地に使う高品質の裏絹(生絹)の産地として知られ、江戸時代から月6回、2と7の日に開かれる市(二七の市)で、絹が取引される絹の町だった。
 明治維新後、製糸・織物業は殖産興業政策として奨励され、越生の絹市も盛況を極めた。明治33年(1900)、株式会社越生生絹市場が設立、間口13間、奥行26間のトタン屋根の建物が新築された。取引の際に押す証印から、「証印所(しょういんじょ)」と呼ばれていた。
 「春雨の降る日など、高い山の上から眺めると、この市場へ通う傘が延々と長蛇の列をなして街へ続いたものだったそうである」(奥富由雄『郷土百年』1968年より)。
 昭和5年(1930)には、この場所に、越生織物同業組合の事務所(織物会館)が建てられたが、平成20年に取り壊された。

第二番 大慈山正法寺  鎌倉時代開山  臨済宗建長寺派

四国八八ヶ所霊場にも禅宗寺院が存在する。一一番藤井寺は臨済宗、一五番国分寺は曹洞宗
三三番雪蹊寺は臨済宗妙心寺派

境内でカラヤンの「交響曲第3番英雄」を聴く

高取山のふもとを南に進むと医王山の屋根が見えてきた

第三番 瑠璃光山東園院医王寺  真言宗智山派

第四番 福寿山多門寺  開山時期不明  真言宗豊山派

JR毛呂駅

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