第七番観音寺~第九番山本坊 2024/9/4
東武越生線川角~武州長瀬


川角駅の南側改札口・・2023年11月設置で新しい。川角駅南側には複数の大学などがあり
混雑時には学生と車両の接触事故が発生しており長年の懸案事項だった。TV「噂の東京マガジン」でも取り上げられていた。

城西大学 付近には明海大学や日本医療科学大学などがある。
1918年に創立された城西実務学校を前身とする城西学園を母体に、水田三喜男と新藤富五郎が1965年設立。2018年時点、5学部8学科と別科を設置。語学教育には5学部を横断する語学教育センターを置いている。主たるキャンパスは埼玉県坂戸市の坂戸キャンパスで、東京都千代田区に数学科・大学院・短期大学部等が使用する東京紀尾井町キャンパスを置く。大学院と城西短期大学を併設する。城西国際大学は姉妹校。城西歯科大学(現明海大学)とは関係はない。(ウイキペディア)
明海大学
970年に城西歯科大学として学校法人城西大学の設置する城西大学の隣に設置されたのを起源とする。創立者は、朝日大学の創立者でもある宮田慶三郎。1988年(昭和63年)4月に外国語学部と経済学部を設置、大学の名称を明海大学に変更した。名称の元となった本部・浦安キャンパスの所在地の浦安市明海の地名は「あけみ」と読む。
日本医療科学大学 1960年城西レントゲン技術専門学校として創立、2007年大学設置
3つの大学をみて南に向かえば多和目橋を渡る。ここは多和目の渡しの跡でもある。

渡った先には大学のグランドが広がる

高麗川の向こうに大学のキャンパス

遠くに見える城西大学などのキャンパスを望遠でショット

「ハチ」とか「まむし」・・・熊よりは


【寄り道】 坂戸市四日市場
越生線西大塚駅の南西あたり このあたりは鎌倉街道上道が通っていた。それにかかる史跡も
多いらしい。
「四日市場は森戸の西に接し、古四の日に市を開きし故四日市場の名ありと云ふ。鎌倉街道は其東方を走れり。人家は現今東西に並び、江戸時代には越生及毛呂地方より川越又は新河岸地方に赴く街道に当りしものゝ如し。小字に曽て玄蕃分及鳥居戸ありき。前者は久米玄蕃の居りし処にや。久米氏後北条に属す。役帳に見之たり。後者は森戸国渭地祗社(旧熊野)の鳥居ありし処なりと云ふ。小鹿野氏は甲斐国より来れる村の旧家なりと云ふ。支流甚だ多し」

第七番 世音山観音寺 真言宗智山派
戦国武士であった旧家小鹿野氏の先祖が秩父郡小鹿野村よりここに移住し、
大永年中(1521~1527)千手観音を本尊として観音堂を建立したと伝えられている。


すぐそばを東武越生線がはしる

観音寺から東に向かうと西大家駅。その北側に国渭地祇神社・・・珍しい名前だと思う。
2・5万図には三角点が表示されているが見つからなかった。
この西大塚駅からかつて太平洋セメント工場・高麗川駅に線路(セメント工場専用線)が続いていた。

東京国際大学総合グランド(坂戸キャンパス)の横をとおり高麗川を渡る。
1965年に国際商科大学として金子泰藏および、一橋大学出身者の有志らにより創立された。創立時は商学部のみの単科大学であったが、1986年に東京国際大学と名称を変え、商学部、経済学部、言語コミュニケーション学部、国際関係学部、人間社会学部の5学部10学科(2014年現在)、大学院4研究科を擁する大学となった。学校法人の本部は東京都新宿区高田馬場。



「市場神社」
このあたりは鎌倉街道上道が走る。



鎌倉街道遺構
社会福祉法人育心会の施設建物の北側、やぶ蚊を追い払いながら西に向かう
「社会福祉法人 育心会は、福祉事業に携わって70年余歳月が経ちました。
当時、知的障害児施設のなかった時代に、埼玉県からの要請を受け、
「精神薄弱児施設 育心寮」を開設して事業を開始しました。現在、救護施設・特別養護老人ホーム・障害者支援施設6施設の計8施設と、訪問介護事業・居宅介護支援事業・通所介護事業、診療所、及び関連・付随部署を経営・運営しています」
(法人のHPから)

「脱穀機」 見るのは何年ぶりだろう

第八番 南蔵寺 現存しない
明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。宝篋印塔などの遺物はここ川角八幡社の
境内に移された。


「芭蕉の句碑」


第九番 山本坊
廃寺・遺跡が残る国津神神社


【寄り道】 毛呂山町目白台の新興住宅地
ゆずの木台などとともに開発された
「ゆずの木台開発着手頃から、バブルが始まりました。
開発当時1400万程度が
最終の6期では3000万に
値上がりしています。
どんどん値上がりし、ゆずの木台の中古も6000万に
跳ね上がりました。
それを売ってどこかの田舎に
転居した人もいます。
その頃、日本都市整備公団が
駅から遠い辺鄙な場所にある
山を1つ買い取り、大団地計画に着手しました。
完成すれば総戸数1200以上になる予定でした。
その名も「ガーデンシティ目白台」
緑化協定があり、街路樹のみ
でなく、各家庭も緑化が義務付けられました。
ガーデナーにとっては、70坪の宅地は垂涎の的で
価格帯4000万。
噂では、東京の一等地を売却し、ここに移り住んだ人も
多いようです。
割と高齢者が多く、一気に超高齢化しました。
当時は東毛呂駅まで、公団運営の送迎バスがあり、
交通のアクセスは良いようでした。
ところが、バブルの崩壊で
公団は目白台一丁目完成後
開発から手をひきました。
売れないのです。
その後、鳩山ニュータウンで
実績のある、「日本新都市開発」が目白台二丁目の開発
着手しました。
まだ送迎バスはありました。
バブルが冷えきって、日本新都市開発も撤退。
送迎バスが無くなり、目白台は「陸の孤島」と化しました。
最近では、目白台四丁目が
開発され、価格帯も1200万程度と、若い共働き夫婦にも手が出せる価格となったのですが、乗用車が2台必要で、
これが生活を圧迫しています。
脚が無い目白台一丁目、二丁目は、いま死にかけています。」
(2023年4月のある方のブログから)

上の送電線はJR東日本専用の送電線。その足元に三角点。


当初10番龍台寺にまで足を運ぶ予定であったが雨がぽつりときたので東毛呂へ向かう
10月13日に続く
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