2024・9・14 第5番宝福寺から第6番延命寺
東武越生線東毛呂~川角


出雲伊波比神社
大名牟遅神・天穂日命わ祭神とし古墳文化成立以前にこの地に移住した出雲の祖霊祭祀を
起源とするという

【寄り道】この脱穀機の製造元・㈱木屋製作所について
天保元年織物器具、蚕具の製造開始。明治44年農機具の製造開始。大正元年法人化
本社はもとは川越市にあったが平成29年に毛呂山町に移転。現在は自動車部品が主力。
西に烏岳(225メートル)見ながら南に進む

【寄り道】烏岳の頂上から・・・冬の晴れた日には都心のビル群がめる 2018/12/15


【寄り道】 ノウゼンカヅラの花・・・「凌霄花」を見ながら第五番に向かう。
「漢名の凌霄花は「霄(そら)を凌ぐ花」の意で、高いところに攀じ登ることによる命名。漢詩では他物に絡むため愛の象徴となる。また、「陵苕」(リョウチョウ)も本種を表す。現代中国語では「紫葳」(拼音 : zǐ wēi)とも呼ばれる。
花の形がトランペットに似ていることから英語では「トランペット・ヴァイン」(trumpet vine)、「トランペット・クリーパー」(trumpet creeper)あるいは「トランペット・フラワー」と呼ばれる」

「モータープール」 駐車場のこと。大阪を中心とする近畿エリアで使われる言葉。
戦後の日本に米軍(進駐軍)が駐留していたときに使われていた言葉である。
関東というより大阪以外の地で初めてみた。
第五番 沢谷山光明院宝福寺 真言宗智山派
境内には大きな桜の木がある




使われなくなった建物を見る 一階は店舗、二階はアパート ?

葛貫住吉四所神社

【寄り道】「毛呂山町・葛貫地域は、平安時代後期、軍馬の飼育や繁殖に置かれた葛貫牧と呼ばれる重要な牧場があったのではないかと言われている。因みにこの「葛貫」という地域名は「つづらぬき」という(「風土記稿」では「くずぬき」と表記)。この管理を行っていた別当(長官)が、秩父重隆の嫡男である河越能隆であり、別名「葛貫別当」とも称していた。久寿2年(1155年)8月、大蔵合戦で父の重隆が家督を争っていた畠山重能(能隆の従兄弟)らによって敗れ、嫡男重頼と共に葛貫や河越の地に移り、河越館(川越市上戸)を新たな拠点として土地の開発を行い、所領を後白河上皇へ寄進して河越氏の祖となる。
戦国時代になると、葛貫地域は後北条氏の勢力下となる。永禄2年(1559)に作られた後北条家臣の領地とその面積を記した『小田原衆所領役帳』には「河越三十三郷葛貫」とあり、後北条一族が直接領地を治めていたという。また江戸時代の葛貫村の鎮守住吉四所神社の史料には「葛貫荘弥蔵村」と記され、戦国時代以降も葛貫荘という古い地名が使われていた。
また葛貫地域には、その先祖を平安時代「中関白家」と称した藤原道隆の子・内大臣藤原伊周流、武蔵七党の児玉党より端を発し、鎌倉幕府の寺社奉行御家人として活躍した「宿谷(しゅくや)氏」の本拠地でもある。この地域には宿谷氏により開かれた薬王寺があり、葛貫地域の東に位置する坂戸市多和目には永源寺や田波目城といった同氏に関係の深い寺院・史跡がある」(古社への誘い 神社散策記 HPより)

ここで昼食・・・駅近くのスーパーで買ったおにぎり・いなりずし
こういう所で食べるのがこれがうまい

八高線を横切る・・・毛呂・高麗川間
「これ北海道です」と言っても通じそうな眺め

踏切を渡り10分も歩けばそこは「新しき村」

【寄り道】「新しき村」一般財団法人新しき村(あたらしきむら)
「作家の武者小路実篤らにより1919年(大正8年)に宮崎県児湯郡木城町宮崎創設された。
1938年(昭和13年)にダムの建設により農地が水没することになったため、1939年(昭和14年)に一部が埼玉県入間郡毛呂山町葛貫の地(東の村)に移転し、残りは日向新しき村(ひゅうがあたらしきむら)として存続。
第二次世界大戦終了時には1世帯のみとなっていたが[要出典]、入村者が増え、1948年(昭和23年)に埼玉県庁から財団法人の認可を受けた。戦後始めた養鶏が成功し、1958年(昭和33年)には村外からの支援なしで自活できるようになった。1960 – 1970年代には若者の移住が相次いで幼稚園もでき、村民は最多時で60人を超えた。この村はただ生活するためのものではなく、精神に基いた世界を築く目的で開村されている。社会階級や貧富の格差や過重労働を排し、農業(養鶏のほか稲作[1]や椎茸栽培など)を主とした自給自足に近い暮らしを行う。労働は「1日6時間、週休1日」を目安とし、余暇は「自己を生かす」活動が奨励される。三食と住居は無料だが、私有財産を全否定しているわけではなく、毎月3万5000円の個人費が支給される[1]。
近年、村内の高齢化が進み、鶏卵の値下がりや人手不足で養鶏を止めるなど農業収入の低迷もあり、村の運営が困難になってきている。過去の積立金を取り崩して赤字を補填している[4]。2010年に太陽光発電を始めたが、固定価格買い取り制度終了で売電価格が下がったことも財政難の一因になった[1]。2013年時点の村内生活者数は13人。村外会員は約160人ほど。2018年時点では宮崎で3人、埼玉で8人が暮らしていた[5]が、2021年春に70 – 80代の5人が離村し、2023年2月時点では3人へと減った」・・・Wikiより


イノシシも怖いが熊よりはよい

西坂戸の新興住宅地を通り明海大学、城西大学の建物みて延命寺につく。
第6番 息災山吉祥院延命寺 真言宗智山派 昔は天台宗だった。


7番観音寺は高麗川の向こう側。橋などがないものか見てみたがなく今日はこれで打ち切り。

東武東上線川角駅。近くに大学キャンパスがあるとも思えないこじんまりした駅舎。
