東国88ヶ所 その12

2023年12月23日
第63番大岡山真光寺から第70番関宮山東樹院まで

始点京急上大岡山 終点京急屏風ヶ浦
主な経由地  久良岐公園入口・笹堀交差点・向田橋・上大岡西・港南中央
       日野IC・笹下・環状2号

昔は「割烹相模」というお店があった。

タウンニュース・2020・7・16から

「上大岡駅東口で創業約40年の日本料理店「懐石花里」が今月19日に閉店する。新型コロナの影響により毎月の固定費が重くのしかかったことが決定打となった。庭園に思い入れのある常連客も多く、閉店を前に別れを惜しんで訪れる人が多いという。同店は上大岡エリアでは珍しく庭園を備えた本格的な日本料理店で、結納や家族でのお祝い事、企業・団体の宴席などで親しまれてきた。
 今年2月以降、新型コロナウイルスの影響で外食産業が軒並み打撃を受ける中、同店も予約のキャンセルが続くなど厳しい状況が続いた。テイクアウトにも対応し、新たな試みにも挑戦し始めた矢先だったが、ホームページ上で6月13日に閉店を発表した。
同店を運営する(株)ながつくるの実・専務取締役の伊澤利晃さんは「固定費の削減が難しくなり、コロナ収束の見通しが立たない状況が決定打となった形。以前の売上には当分戻らないと判断した」と明かす。」  

「赤い風船」 1972年にオープンした商業施設 と 箱根二子山


霊峰富士    左の白い建物は横浜市立南高等学校の校舎

第63番 大岡山蓮上院真光寺  高野山真言宗
真光寺の創建年代等は不詳ながら、平安時代末期に諒賢(寿永2年1183年寂)が中興したと伝えられる古刹
万治3年(1660)には仁和寺より大岡山蓮乗院の号を付与され、また明治維新までは上大岡鹿島神社の別当を勤めてた。
関東大震災により倒壊し、境内地も亀裂が生じたことから、字入ノ前(上大岡コミュニティハウス・上大岡東二丁目公園付近)から当地へ昭和3年に移転

久良岐公園入口
面積は、約23万m2。汐見台団地の造成にあわせて整備され、1973年(昭和48年)に開園した。名称はこの一帯の古い地名である久良岐郡から採られ、公募により決定した。中央付近に池があり、北側は散策路のある雑木林の先に久良岐能舞台がある。南側は運動広場や芝生広場、桜の林、横浜市電の保存車両などがあり、春には花見客でにぎわう(ウイキペディア)

大岡4丁目  赤いレンガ色のライオンズマンションが目立つ

第64番医王山金剛院 高野山真言宗

開創時期には複数の説がある。『新編武蔵風土記稿』によると、長誉により開山され、1696年(元禄9年)1月15日に入寂したとある。横浜市史稿にも、元禄の頃に長誉により創立されたとあるが、1633年(寛永10年)の関東古義真言宗本末帳には宝生寺の末寺として記されている。旧家の過去帳の調査では長誉以前に少なくとも3代の住職がいたと見られ、長誉は堂宇を整備した中興の住職であると考えられる。1745年(延享2年)の根岸領書上には医王山金剛寺と記され、院号は用いられていない。天保年間(1830年~)に記された『新編武蔵風土記稿』では璃瑠山金剛院として、寺号を用いない表記となっていることから、この間に寺号に変更があったものと考えられる。1909年(明治42年)12月25日、達家本浄が17世住職に入山。1918年(大正7年)、火災により建物や文書などを焼失。1932年(昭和7年)、農家を買い取り本堂を再建した。1975年(昭和50年)には本堂を改築、翌1976年(昭和51年)には大黒天の堂と地蔵堂を改築した。67年間にわたり住職を務めた本浄は、1976年11月15日に99歳で入寂した。2003年(平成15年)には新たな本堂が竣工した。(ウイキペディアより)

いくみようちえん(学校法人育美学園・育美幼稚園)  昭和35年開園   
長男と長女がお世話になりました・・・30年以上前

岡村4丁目から大岡3丁目に向かうときの切通

 上大岡駅前も変わった

第六十五番 西岸山千手院蓮華寺  真言宗大覚寺派  創建年代不詳
千手院の創建年代等は不詳ながら、大阿闇梨尊継不生(寛永11年1634年寂)と刻した墓や、過去帳などから天正年間(1573-1593)に創建したのではないかといい、明治6年9月、村内の西光山来迎寺を合併、関東大震災で被災したため、来迎寺のあった当地へ移転したという

僅かな距離で

第六十六番大久保山自性院   高野山真言宗   開基平安時詳しい創建の年代や開基などは定かではありません。

「寺伝によれば、平安の頃、東国巡錫中の善住上人が峻山険しき丘陵地帯相武の境界、当地に至ってふと地蔵菩薩の霊感に渇仰し、小庵を結んで地蔵菩薩の尊像を刻み安置し奉ったそうです。当山はその善住上人によって開山されたと伝えられています。

当初は善住山地蔵堂と言いましたが、平安時代末期に京都御室の仁和寺から院号「自性院」を賜り、久保山自性院地蔵寺と称するようになりました。

興国2年(1342年)6月、兵火の厄に罹り堂宇伽藍一宇も残らず全焼しましたが、当時の住職善怡法印が恵心僧都の御作地蔵菩薩を迎え、堂宇伽藍再興をされたそうです。よって、この善怡法印を当山中興開山第1世と称しています(後の住職歴代は、この善怡法印を1世として数えているようです)。

永正7年(1510年)7月、再度の兵火に罹災し、悉く堂宇が全焼しました。その後、何時の頃か再興を見るに至ると伝えられております(現存する本尊地蔵菩薩は横浜市の調査で江戸時代作ということが分かっていますので、度々の災禍の後で新たに迎えられた地蔵菩薩様と思われます)。

寛永10年(1633年)2月10日、関東寺院本寺末決定の際には堀の内石川寶生寺末と記録されていたそうです。

当院記録(寛永年間からの過去帳写し)には「當院中興第十五世権少僧都長信法印(寛永12年5月1日寂)」の記述があり、史料においてはこの長信法印を当山の「中興」としています。当山ではこの寛永年間からの過去帳写しが現存しておりますが、過去帳原本が残るのは明和9年(1772年)からのものとなります。

安永年間、中興第25世宥禅法印の代、庫裡・客殿・門を造営するに至りますが、その後、文化9年(1813年)12月24日、重ね重ねの災厄にかかり、一宇も残さず古記録に至るまで悉く全焼してしまいます。

第26世金海法印は、境内の一部に仮境内・仮庫裡を造営しましたが、寺賎乏しく中々本堂再興に至りませんでした。その後は無住の時が続き、寺は荒廃していきました(当山には天保13年の正月に第27世住職堯禅僧正が持ってきた涅槃図が現存しておりますが、この什物は災禍を免れたようです)。

その後、安政2年(1855年)、青木明神遷宮の大導師を勤めた第28世満賢房霊明法印(磯子真照寺戒光僧正の弟子)が三間堂を建立しました(当山は、明治維新後の神仏分離令が行き届くまでは青木明神社の別当でした)。

明治維新後、第30世自覺房明道僧正(神奈川龍華寺の弟子)の時、鎌倉の日金山松源寺(源頼朝開基)が廃寺となり、そのお寺にあった半鐘(木村將監藤原安成作 正徳元年銘)を明治3年に譲り受けました。この半鐘は現存しており、毎年除夜の鐘法要の際には一般の方々にも撞いて頂けます。

当山は長く石川村寶生寺末の寺でしたが、明治7年には増徳院末となりました。その後、大正15年6月29日付で高野山直末の寺院になりました。

昭和2年、第34世髙橋英禅僧正が参道の石段を整備し、寺容が整いました。

昭和36年、第37世山本聖善僧正が本堂(現本堂)・庫裡を再建しました。同55年に本堂を増築、同59年には開山の善住上人ゆかりの権現堂を再建しました。権現堂の本尊には、当山檀信徒家の大黒柱であった欅を用い、聖善僧正の畏友、眞光寺第39世住職政岡智秀大僧正が精魂込め彫り上げた不動明王像を安置しました。

平成3年、第38世山本邦法僧正の時、客殿庫裡を新築造営しました。同7年には石段及び境内地を整え、寺容は一新されました。

平成29年、第39世山本高寛(現住)の時、老朽化してきた本堂に耐震改築を行い、本堂屋根の葺き直しを行う等の各種修繕を施し、現在に至ります。

______

以上は、第37世聖善僧正記述の当山登記文書由緒沿革をベースとし、「新編武蔵風土記稿」、「横浜市史稿 佛寺編」、「港南の歴史」、神奈川宗務支所発行の「寺院名鑑」等の記述他、寺に残る資料を参考にし、住職自身の調査も含め、文章の構成・加筆修正を行いました。


現住職が勉強・調査中のため、新しいことが分かり次第随時加筆修正を加えていきます。何か詳しいことをご存知の方がいらっしゃいましたら、お問合せページ等からご助言頂きますようお願い申し上げます。

お寺のHPから

このあたりは坂道の宝庫

横浜市水道局笹下ポンプ場 現役か?

第六七番 南光山福聚院慈眼寺
福聚院の創建年代等は不詳ながら、第12世貞法印が、天正16年(1588)示寂であることから、室町時代の創建であろう

68番へは日野川に沿って向かう。
県道22号線が環状2号線と交差するあたり 「スナック三叉路」

車名不明だがアメリカ車であることには違いない

第六八番 福聚山光明寺  高野山真言宗

第六九番日野山徳恩寺  高野山真言宗

第七〇番 鬨宮山東樹院  高野山真言宗

発心の地へ

次は12月28日