武蔵国88ヶ所 その8

武蔵国八十八ヶ所  2023年 1月 8日

40番から43番東武線越谷からさいたま高速鉄道浦和美園を歩く。  

そこは万葉集と飛行場の世界、そして人のいないお寺をみて寺院の建立を思う。

越谷駅西口 

越谷 という街。江戸時代、日光街道の宿場町・越ケ谷宿として栄えた。慶長17年以前は元荒川の右岸側が武蔵国埼玉郡、左岸側が下総国葛飾郡であったが両町を合わせて越ヶ谷宿とされていた。
1899年東武鉄道伊勢崎線(スカイツリーライン)が開業。1962年東京メトロ日比谷線と直通運転開始。1973年武蔵野線開通、東西、浦和へのアクセスが飛躍的によくなった。

赤山町 赤山街道が通っていたのでこの名がついたらしい。

西に進み草加バイパスを横切れば、昔の田畑が広がる。
いかにも”水郷”らしい風景。

西教院 浄土宗

神明社 元々地元の中村氏の屋敷神だったが参拝希望者が多かったから
一般的に開放された。

さいたま市岩槻区の水田地帯を北西に進み緩やかな台地に進むと40番がある。

40番 愛宕山勝軍寺  真言宗智山派 さいたま市岩槻区尾ヶ崎1844

28番照光院でも書いたが、初めて書籍に書かれていたのを目にした。

「尾ヶ崎観音から西側の坂を登っていく。城南中学校の傍をとおり、しばらく進むと、勝軍寺がある。勝軍寺は愛宕山求聞院と号する真言宗智山派の寺で、本尊は虚空菩薩である。永享8年(1436)、法院奝光(ちょうこう)により開基された。天正2年(1574)、京都仁和寺から「勝軍寺」の称号を賜った古刹で、江戸時代には、3石の朱印地を賜っている。

かつては四国88ヶ所霊場を模した「三郡送り大師」という、北足立郡、南足立郡、埼玉郡の寺院を、弘法大師の絵や像を順送りして参拝する札所信仰があり、40番目の札所であったが、今は途絶えている。この寺には、慶長17年(1612)銘の『武蔵国騎西郡黒谷之尾ヶ崎之郷検地帳』がある。

境内には、延宝6年(1678)銘の阿弥陀三尊像、地蔵菩薩像、享保8年(1723)銘の庚申塔など数多くの石仏がある。」「武蔵国の万葉を歩く・下」からの引用。


そこから戻るように城南中の横を通り緩やかな坂を下ると岩槻街道(日光御下道)
(県道324号)に出る。城南中、この”城”とはどこを指すのだろうか。
南東に進む。県道324号の西側は浦和美園からの都市化・住宅化で新しい建物が
多い。歩いていて実際の住所と2・5万図(岩槻)の表示が違うような気がした。
確認しようと思っている。道の左側に41番。 

41番 日輪山明王院円福寺 真言宗智山派 さいたま市岩槻区釣上1423
1897年(明治30年)に火災に遭い記録焼失のため創建年代不明。
少し距離はあるが同じ岩槻区柏崎に同名の寺がある。そこは曹洞宗。

さらに南東に進み道の西側に少し入ったところに41番。

42番 保寿院 さいたま市岩槻区釣上新田1286

 不動明王を本尊

ここも、41番円福寺と同じように今は表札のある門柱と建物は集会所のような建物のみだが裏には墓地があり、お墓参り人がいた。

 

釣上(カギアゲ)という地名  本来「釣」というこの字に「カギ」という読み方はない。古文書に「鉤、釣」が併用されているという。

43番 正福寺  さいたま市岩槻区尾ヶ崎新田192

 お堂とお墓のみ。この付近は綾瀬川の大規模な治水工事が行われており、
地図に表記されている場所は更地になっていた。少し離れたところにお堂と
隣接したお堂があった。このお堂が“痕跡”らしい。
ここを訪れた日の後日分かったことだが、お堂の横に「万葉の碑」がある。

 

このあたり、昔は綾瀬川など中心にいくつかの河川が入り乱れた広大な湿地帯だった。令和のいまでも治水工事は行われている。このような場所になぜ、何をきっかけに寺が建立されたのだろうか。

角川選書「東国と信越・シリーズ地域の古代日本」を読むとつぎのように書かれている。

 古代寺院の建立は、推古朝に飛鳥寺が建立されたことに始まり天武14年

(685)、諸国で家ごとに仏舎を建設、仏像と経典を礼拝供養するようにとの詔が出され、これが地方豪族層による寺院建立の契機の一つになった。

 8世紀に入ると律令国家による寺院統制政策が出されその後半には古代村落に村堂が出現。村堂とは各時代の村落共同体の日常生活全般と密接に関わる役割を担った村の仏堂である。

 

次は1月13日

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