第53番青龍山宝生寺から第62番雨寶山萬福寺まで
始点京急黄金町 終点京急上大岡
主な経由地 中村橋・蒔田の森公園・横浜商業高校・井土ヶ谷・弘明寺・放送大学
「TAKEYA]・・・「横濱の喫茶店」(ぴあMOOK 2023/10)に紹介されていた店で、朝が早かったせいか開いていなかった。
「ベトナム戦争の真っ只中の1960~70年代、中華街のはずれにあった『リバーサイド』という酒場では、米兵が本国から持ち込んだ最新のドーナツ盤ジュークボックスで流し、夜な夜なソウルミュージックやダンスを愉しんだ。マスターの片岡孝夫さんもこの店に毎晩のように踊りに行くうちに、ソウルに染まっていったという。そんあ大好きなソウルをBGMにカウンター越しに会話できるような店をとの思いから1983年に喫茶店を開いた」
不思議なオブジェ・・・ベンチでもなさそうだし
「富士見川公園」 昔、富士見川だったところを埋め立てた
「富士見川」 明治初期にこの一帯が開墾されその際、造られた約800メートルの運河。
排水路として特化され付近の住民たちを汚臭で悩まし明治29年(1896)に埋め立てられた。
第五十四番 妙法山弘誓院 高野山真言宗 天文5年(1536年)開山
東国八十八ヵ所霊場54番札所、横浜觀音三十三観世音霊場30番札所、横浜弘法大師二十一箇所10番札所、横浜磯子七福神の福禄寿
53番青龍山宝生寺との間の小高いところへ向かうが抜けられず、引き返した
(53番と54番、訪れた順が逆転してしまった)
第五十三番 青龍山宝生寺 高野山真言宗 承安元年(1171)創建
横浜の地名が出てくる最も古い文書があるという
「館章」? 正式な名称はどういうのだろうか 校章、徽章、社章・・・
細い路地を北西に向かう
第五十五番 南龍山無量寺 高野山真言宗
鎌倉法師貞暁阿闍梨が承元3年(1209)に創建
「当寺は承元三年貞暁上人の創建によるもので霊像不動明王が祀られている。貞暁は源頼朝の子として鎌倉に生まれたが、故あって幼少より仏門に入り、紀伊の国高野山で修行に専念した。
その後、蒔田の山麗に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、南龍山不動院無量寺と号し、貞暁は当山の開祖となった。以来鎌倉鎮護寺として発展したが、寛永十一年の火災で什宝を焼失し、近くは大正十二年の関東大震災で堂宇を鳥有に帰するなどした。
昭和八年十方檀縁の協力を得て桃山式堂宇の造営を見るに至った。前大戦中の昭和二十年五月の横浜大空襲で炎滅するところ近隣者の救援によって焼失を免がれた。本尊不動明王は平安末期の代表的仏像で『鉄縛り不動』として親しまれている」 寺のHPより
背後には「大山ねずの命神示教会」の本部がある。
「大山ねずの命神示教会は、供丸斎(ともまるさい、[8]、本名:稲飯 定雄[10]、1905年 – 1988年)が1953年9月23日に設立した新宗教である。教会によれば、「神、仏、人の道」が教義である」(ウキペディアより)
横浜市立横浜商業高校 明治15年創立、愛称Y高
第五十六番 松吟山寶樹大光寺 高野真言宗 創建年代不詳だが寛永2年(1625年)に
東福寺(横浜市西中区赤門2)の住持・秀甚法印が中興した
短いながらの参道
57番に向かう途中で・・・こういう感じ好きです
第五十七番 十輪山延命寺西光院 高野山真言宗
法印覺眞が建保2年(1214)或は建治2年(1276年年)井土ケ谷に創建
近くを京急が走る
第五十八番 西向山乗蓮寺
「乗蓮寺は、鎌倉幕府を開いた征夷大将軍・源頼朝の奥方である北条政子により建立されたお寺です。北条政子は仏門に厚く帰依し、頼朝の死後は剃髪して二位の尼と称し一方で天下の政治を、他方で仏教を説き、諸国に仏像を納め各地に寺を建立し、人心の善導に努めました。晩年には鎌倉の鬼門にあたる当地に滞在し、朝夕の化粧に適した井戸を掘らせ、本尊不動明王をお祀りして乗蓮寺を建立しました。今から約800年前の貞応元年のことです。そして、女人と子供の守護仏となるよう御誓願をし、自分の姿を鏡に写して自刻した分身を御影堂に安置し、信じてお参りに来る物は『一切の災厄を免れ、願望成就し、利益限りなし』と説き、厄除けの尼将軍ともいわれました」(寺のHPより)
第五十九番 引越山定光寺 高野山真言宗
創建年代等は不詳ながら覺清法印が開山したといわれている。
幼稚園(マヤ幼稚園)を併設
マヤ お釈迦様の母上のお名前からだろう。
第四十四番 醫王山成願寺多聞院が併設する幼稚園は「ルンビニ幼稚園」
と名付けられている。
京急の弘明寺踏切を渡る
第六十番 瑞応山蓮華院弘明寺 高野山真言宗・横浜市最古の寺
「今から1300年近く前、元正天皇の養老5年(721年)にインドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来、それから17年を経て聖武天皇の天平9年(737年)、天下に悪病流行の際、河内和泉の国の僧行基が勅命を奉じて、天下泰平祈願のため全国を巡錫(じゅんしゃく)し、当山の浄域に草庵を作り、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝する)の至誠を尽くして彫刻祈願されたのが、現在の御本尊十一面観世音菩薩様です。
嵯峨天皇の弘仁5年(814年)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩を焚いて庶民の除災招福を祈願したと言われています。
そして寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により瓦葺き本堂が建立されました。御本尊様の彫刻予想年代とこの本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われています。
鎌倉時代には、「求明寺」と称されていたものを、観音経偈文(かんのんぎょうげもん)の中の「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の「弘」の字をとり、「求」を改めて現在の弘明寺となりました」
無住職となり、住職系図までもが紛失した明治中期
明和3年(1766年)に智光上人により現在の本堂に再建されましたが、光慧上人が建立した時のチョーナ彫の床板やハリ、ケタ、等は再使用されています。大政奉還によって政権が朝廷に戻り明治時代を迎えると、神道に属さぬ仏教寺院は全国で大弾圧を受け、当山も寺領は御朱印と共に新政府に没集され、明治中期には無住職となって寺伝、寺宝の数々、住職系図までもが紛失する事態となりました。
(寺のHPより)
弘明寺商店街の誕生と、弘明寺駅の完成
明治34年(1901年)に渡辺寛玉師が住職に就任すると、弘明寺保勝会が設立され、弘明寺の復興と町おこしに皆邁進しました。大岡川沿いの桜並木もこの当時植樹されたものです。明治44年(1911年)には、県知事周布公平氏の指示により、仁王門前から鎌倉街道に接する農道が整備され直線の4間道路が完成、これが現在の弘明寺商店街です。 昭和に入ると、4年(1929年)に湘南電気鉄道(現京浜急行電鉄)が、寺裏山を貫通して弘明寺駅が完成しました。昭和51年(1976年)には、美松寛海和尚により本堂屋根銅板張り替え工事、客殿改修工事が行われ、続いて美松寛定和尚により「平成の大修築」が実施されました。
平成13年(2001年)6月には、京浜急行電鉄株式会社より会社設立100周年の記念事業として、人々の病気平癒を祈願する為に身代地蔵菩薩が境内に奉納されました。
(寺のHPより)
横浜市南区スポーツセンター
建物のファサードは神奈川県立商工高等学校時代のもの。同校は1974年3月保土ヶ谷区に移転
建物は関東大震災で崩壊したあと1926年2月に完成したものらしい
第六十一番 慈雲山如意珠院吉祥寺 高野山真言宗
平戸大學が開基となり、長雄(寛永元年1624年寂)が開山
第六十二番 雨寶山瑠璃院萬福寺 高野山真言宗
平戸大學が開基となり、長雄(寛永元年1624年寂)が開山
「横浜市史稿 佛寺編」による萬福寺の縁起から
この近くに勤めていた会社の社宅があり約5年間住んでいた。3階の北の窓からは遠くランドマークタワー、夏には横浜港花火大会の花火も見えた。
出勤時に通った坂道。雰囲気はそのままだ。
この建物もあった。当時は青一色のペンキで塗装されていた。
当時は書店