2026.1.31 第68番永代寺
深川、亀戸あたり

第68番 大榮山 金剛神院 永代寺 高野山真言宗
創建年 寛永元年(1624年)
開基 長盛法印
1624年(寛永元年)、長盛の開山により永代島に創建された。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄え、深川一帯でも指折りの広大な寺院であった。明治初年の神仏分離により廃寺となり[1]、跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになった。その後、1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのが現在の永代寺である。


当地の地名・門前仲町はこの旧永代寺の門前という事で名付けられた。




第74番 賢臺山賢法寺閻魔堂法乘院 真言宗豊山派
1629年(寛永6年)、覚誉僧正によって開山された。元々は深川富吉町(現・東京都江東区佐賀)に位置していたが、1641年(寛永18年)に現在地に移転
日本最大の閻魔大王座像
江戸時代から「深川の閻魔」として知られていた。当初の本尊は閻魔であったが、1760年(宝暦10年)に閻魔堂に移された[1]。今日では、深川えんま堂の名で通り、堂内では光や音を駆使しながら閻魔の声で仏の教えを語るように設定されている[2]。

19の祈願に対し賽銭を投入することで、仏様より様々な説法を聞くことが出来るというシステムであり、日本で初めて採用した。おゑんまさまの除けと封じの法力は特別なものとのことで、江戸三ゑんまの一つとして庶民を惹きつけている。構造は全高3.5 m、全幅4.5 m、重量1.5 t、寄木造りである[3]。



第37番瑠璃光山萬徳院 高野山真言宗
1629年(寛永6年)に創建された。その後、1643年(寛永20年)に現在地に移転
当寺の墓地は、下記のごとく力士や行司など大相撲関係者の墓が多く、別名「相撲寺」と呼ばれている[1]。


伊勢ノ海(初代~9代)
佐渡嶽沢右エ門
6代式守伊之助(行司)














第46番 弥勒寺 万徳山聖徳院弥勒寺 真言宗豊山派
別称 川上薬師[2]
弥勒寺は「万徳山聖宝院」と号し、真言宗豊山派の寺院である[4]。本寺は京都の醍醐寺三宝院で、のちに根来寺(和歌山県)の末寺となった[4][5]。

この寺は、1610年(慶長15年)宥鑁(ゆうばん)が徳川家康から江戸の小石川鷹匠町(現在の文京区小石川三丁目)に寺地を下賜されて建立した寺である[注釈 1][4][5]。それから日本橋馬喰町を経て、1689年(元禄2年)2月に当地へ移転した[4][5]。

当初弥勒菩薩を本尊としたことから寺号を弥勒寺と号したが、8代の清長のときに徳川光圀から薬師如来像を寄進されたことからこれを本尊とした。江戸時代には新義真言宗の触頭寺院であり寺領100石の朱印状を与えられ、関東四か寺の一寺として格の高い寺院であった[4][5]。

本尊の薬師如来は行基の作という言い伝えがあり、「川上薬師」という別名がある[4]。『文政寺社書上』という史料によれば、もともと常陸国(水戸藩領)の寺院にあったという[4]。この寺院は水戸光圀によって寺領が没収され、その際にこの像を那珂川に流した[4][5]。しかしこの像は川上に流れたため、光圀はこの像を信仰するようになった[5]。そして川上薬師として祀られた[4][5]。弥勒寺は江戸十二薬師のひとつとしても知られ、本所界隈では元徳稲荷・徳山稲荷(とくのやまいなり)と並んで縁日には賑わいを見せた[4][5]。
弥勒寺は御府内八十八箇所の46番札所でもある[3]。塔頭として、徳上院、法樹院、正福院、宝珠院、正覚院、竜光院の各寺院があった[4][5]。そのうち、徳上院、法樹院、竜光院は独立の寺院として現存してい
杉山和一(杉山検校)墓:杉山和一は伊勢の生まれで鍼灸師として知られる
筆塚:昭和期の書家、相沢春洋[9]を偲ぶ碑


第50番 大徳院 高野山真言宗
大徳院(両国2-7-13)
高野山真言宗金剛峯寺(和歌山県)の末寺で、もと高野山諸末寺の総触頭であった。古くは神田橋外に宿寺居屋敷を拝領していたと伝えられるが、寛文六年(一六六六)に本所猿江の地に移転、更に貞享元年(一六八四)に南本所元町の現在地に移ったもので、この当時の住僧宥永上人を中興開山とする。本尊は寅薬師如来で弘法大師の作と伝えられ、、江戸八十八所弘法大師めぐりの一所に挙げられていた。また、徳川家代々の将軍の信仰が厚く、公儀御尊牌所となっていた。(「墨田区史」より)

建物平成25年(2013) 完成地上5階地下1階



両国駅前からバスで亀戸まで
第73番 東覚寺 真言宗智山派1901年(明治34年)に覚王寺を合併した。その際に本尊を不動明王から大日如来に変更した。江戸時代は「亀戸不動」として有名であった
1531年(享禄4年)、玄覚法印によって開山



第40番 福聚山善應寺普門院 真言宗智山派

大永2年(1522年)武蔵国豊島郡三原にあった開基とされる千葉自胤の城中に創建された[2]。創建時の本尊は聖観音で、千葉自胤の家臣佐田善次盛光が冤罪によって斬罪に処されるところ、日頃の信心によって、この観音に身を救われたことから、千葉自胤が感じ入り寺院を建立したのだという[注釈 1]。後に年代不詳ながら別に堂が建てられ、元和2年(1622年)に現在の土地に移った[3]。その際、船で釣鐘を運ぼうとしたところ、誤って隅田川に落としてしまい、これを引き上げることはできなかった。これが鐘ヶ淵の地名の由来となっている[3][注釈 2]。慶安2年(1649年)には徳川家光が立ち寄った際、5石の朱印状を拝領した。安永年間(1772~1781)には栄範上人によって本尊が聖観音から大日如来に改められた。また、江戸期には葛飾区青戸にある薬王山真頂寺宝持院の末寺であった。



亀戸天神を横切りバスで鶯谷駅へ
