武蔵国88ヶ所 その1

第1日目 2022/11/11
第一番総持寺(西新井太師)から九番中根大日堂まで。
東武伊勢崎線西新井から同獨協大学(草加松原)の間を歩く。
宿場町と工業団地について少し知る

西新井駅をはじめて訪れたのは約20年前。当時は駅前の再開発が始まったばかりで、ところどころ白いフェンスで囲まれていた。当時の地図を見ると日清紡績の工場と社宅そして東武鉄道の工場があった。今も「ぼうせき通り」の名前が残る。
西新井駅から太師前駅まで、全線1キロの単線。走っているのは2両連結の1編成のみ。
立派な駅舎の太師前駅。が、駅員もいなければ切符も売っていない、改札口もない無人駅。
 この太師線、昭和6年に開通。伊勢崎線と東上線とを結ぶ計画があった。確かにそばを通る環状7号線沿いに進めば常盤台駅につながる。

約25年前の西新井付近 商業施設やマンションは建築途上

西新井駅  1889年8月開業。乗降人員58000人(2022年一日平均)
1973年開業した駅ビル「トスカ西館」は改修工事中。

第一番通称西新井太師  真言宗豊山派総持寺。いうまでもなく著名な寺。
訪れたとき、境内での菊祭りか何かの中継のためかNHKの放送車クルーがいた。

第二番へは、何の変哲もない往復2車線の道を銭湯を眺めながら北に進む。途中「七曲り」の案内プレートを見る。

「~曲り」というと城下町で防御目的とか旅人が店などに目が行くように経済効果を狙ったとかの理由があるようだ。川越の「七曲り」とか岡崎の「二七曲り」など。
だがここの「七曲り」は曲がりくねった道の愛称募集でつけられたらしい。

第二番 妙憧庵 真言宗霊雲寺派
 門は閉まっており鍵もかけられていた。廃寺ではなく「留守寺」(多分近くの寺で管理している)。「当地にあった地蔵堂を基に、天明年間(1781〜1789)に千住掃部宿の町人喜七が資材・土地を提供して創建したといいます」(サイト・猫の足あとより)
この「88ヶ所」のコースの性格を垣間見た印象。頭を下げ北に向かう。

無量山源正寺 真言宗豊山派  創建年代不詳
       荒綾八十八ケ所霊場二番札所・伊興七福神恵比寿神

第三番 宝光山実相院   真言宗豊山派


 伊興の子育て観音として知られる。天平年間行基の創建とされ、源頼義親子が「奥州征伐
の途次に祈願。伊興七福神の弁財天、大黒天、毘沙門天を祀っている。
「奥州征伐」 鎌倉政権と奥州藤原氏との間の奥州での戦いを言うが、この「征伐」という言い方は鎌倉幕府側にたった表現ではないかと問題視した学説により「奥州合戦」という言い方が20世紀までに定着した。

そしてこの寺の名前の「実相」を辞書で辞書で引いてみた。
  ①実際のあり様・真相 ②生滅、無常の奥にある真実・真如 とある。
そういえば「真如苑」という宗教団体がある。「真言宗醍醐派」の流れをくむとのこと。

ここの北側、東伊興4丁目あたりは関東大震災で移転してきて誕生した寺町「伊興寺町」。
 寺の集団移転について 最近読んだ『敗者としての東京』(吉見俊哉)に書かれている。
近世の寺院は、檀家としての武家との関係が深く、地元の地縁的な秩序には依存せずこの点が
神社と違った。それが寺の集団移転にも結び付いたと。

伊興、古千谷本町の地名を見ながら西に向かう。
「古千谷」舎人地域東部。古い歴史を持つ地域で。住居表示では古千谷1丁目、2丁目。隣接して古千谷本町1丁目~4丁目。古千谷1丁目、2丁目は舎人公園のなかにあり住民登録はゼロ。
かつては人も住んでいたが公園誘致に伴い敷地外に転居した。

この付近のことについては「昭和20年東京」(筑摩書房)に書かれていて読んだことがある。
「舎人町・・・舎人1丁目・廃墟に残された六地蔵と墓」という題がついた小さな写真。
あたらしいマンションの前にたつ6地蔵。
舎人ライナーを高架を見れば金龍山円通寺。

第四番 金龍山円通寺 真言宗豊山派。東京都足立区入谷1丁目。

創建白鳳2年(651年)だが詳細不明。
 足立区という地名はかなり古い。「武蔵国足立郡」は埼玉県に属する広い地域。足立区はその中心である大宮(氷川神社一宮)からすると辺境であった。舎人、淵江(保木間、伊興)、花俣(花畑)など古い地名がさいたま寄りに並ぶのは古代にはそちらが大宮に近く拓けたからである。

「協和小学校」 1874年(明治7年)
  「入谷圓通寺を以て校舎に宛て協和小学校と称し子弟の教育をなす」
                    (舎人小学校HPより)

北東に進路を変え西門寺(舎人2丁目)の横を過ぎ、見沼代親水公園(緑道)と
毛長川を渡る。

西門寺 1377年(永和3年)創建。浄土宗

渡ったそこは草加市新里町(にっさとちょう)。南にわずかで五番。

第五番 御幣山阿弥陀寺泉蔵院 応長元年(1311年)創建  真言宗智山派
近くに毛長神社がある。

 両新田東とか谷塚という地名を見ながら東に向かえば草加バイパスに出会う。国道のバイパスとして1967年4月開通。今はこちらが国道4号線となり旧道は埼玉県道49号線となっている。往復4車線、往来も激しく近くに横断歩道はない。

横断用のトンネルがあるところまで東京方面に戻る。そのトンネルをくぐれそこは畑と住宅が混在する所。東武線谷塚駅にも近い。第六番宝持院がある。

第六番 長久山宝持院 真言宗豊山派。江戸時代初期創建。
山門左の桜と銀杏が自慢。
谷塚小学校発祥の地=明治6年に本堂を仮校舎として開校。


門を出れば谷塚駅前のビルが見え東武線を横切れば七番はすぐにつく。

第七番 宝光山安楽院善福寺  真言宗豊山派 
 創建年代不詳。幼稚園も併営。

そこから県道49号線(旧国道4号)を北に向かう。草加市の中心街となり、
~繊維、~染とか~せんべいの看板が目に付く。地名で言えば高砂、住吉。


 少し話はそれるが武田花という写真家がいる。第15回木村伊兵衛賞(1989年)を『眠そうな町』という写真集で受賞した。作家武田泰淳の娘である。主な被写体は、猫と時代から取り残されたような街並みで、ここ住吉とか高砂でのショットもある。この写真家がカメラを向けたころはバブルの前でもっとローカル色の強く今のようにマンション一色では無かったろうにと思いながら歩く。草加駅も近い。
なおも進めば谷古宇橋。その先を右折すれば道の両側は大きな工場群。とりわけ目立つのが
建物の壁面に「Kleenex SCOTIEE」」のロゴがある日本製紙の工場。
日本製紙 日本第2位(世界8位)前身は十条製紙、東北振興パルプ、山陽国策パルプ、
大昭和製紙の4社。ここは基幹工場ではない。

いつもお世話になっているティッシュペーパーはここで生まれるのかと考えながら少し北東に進路を変える。地名は弁天町となる。

第八番 恵光山観正院 新義真言宗豊山派
山号を恵日山、院号を妙音院、寺号を東照寺と称し慶長10年(1605)法印俊賢の開山と伝えられている。明治41年光明山阿弥陀院観音寺(草加市八幡町)を合寺した際に恵光山観正院に改号。
 

第九番 大日堂  廃堂となっておりいまは「中根町会館」という建物がある。


 この中根大日堂の創建年代は不詳だが、中根にあった泉福寺(新義真言宗、埼玉郡柿木村東漸寺末、立印山と號す、本尊不動を安ず)が管理していたらしい。

ここから東武線獨協大学前に向かう。

 次は11月19日